「キリストの従順」
へブル人への手紙5章1〜10節
(1)大祭司の資格。
今日の個所は、大祭司の姿が記されています。大祭司はまず人々の中から選ばれることが記されています(1)。それは、大祭司の資格として、他の人々と変わりがない者、人々を代表するものであることが示されているのです。大祭司は、犠牲をささげて人々の罪のためにとりなしをする働きをします(レビ記4章等)。「無知な迷っている人々」とは、人の弱さ、もともと持っている罪の性質のために、気付かずに神さまの御心を損なう歩みをしてしまっている人々をさしています。これは特別な人々ではなく聖書においてすべての人々が罪びとであることが記されています(詩篇14篇等)。大祭司も例外ではなく、自分自身のためにも犠牲をささげなくてはなりません(レビ記16章等)。
そこで第2の資格として人々の弱さを思いやることができることが示されています(2)。人の弱さを知っているからこそ同情してとりなすことができるのです。最後にアロンの場合(出28:1、民16~18章)と同じように神さまの召しによって選ばれたものであることが記されています。
(2)大祭司なる主イエス。
キリストは、他の大祭司と同じようにご自身の力によらず、み言葉(詩篇2:7)に引用されているように神さまの選びによって召されました。キリストは、「肉の生活」と記されているように、私たちと全く同じ人となってくださいました。神の子であるイエスさまは、本来死なれる方ではなかったにもかかわらず、私たちの弱さを担ってくださり、死ぬべき存在となってくださいました。そしてキリストは、私たちの弱さを負ってオリブ山において祈りと願いをささげてくださいました(ルカ22:39~46等)。キリストは、罪を犯されませんでしたが私たちの弱さを知ってくださっているのです。
(3)キリストの従順。
「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、」(8、9)。
ここで「深い信仰のゆえに聞きいれられた」(7)と記されていることは大切です。イエスさまご自身の願いは「この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と記されています。ですから聞き入れられていないと読み取ることができます。けれどもそのあと引き続いて「しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と祈られています。このところで記されていることは、キリストがご自身の願いよりも神さまのみこころが成ることを願われたことが「聞き入れられた」ということなのです。キリストは、そのようにして誰よりも神さまに従う方であったにも関わらず、私たちの弱さを担うものとして苦しみに遭い従順に従い通してくださいました。私たちのそのキリストの従順によって信じるだけで救われるのです。