「十字架を負うて従う」
ルカによる福音書9章18~27節
今日の個所でイエスさまはペテロの信仰告白が導かれ、ご自身の目的を明らかにされるためにひとりで祈りをささげておられました。
(1)わたしを誰というか。
イエスさまは祈りを終えられた後、弟子たちに群衆がイエさまのことを誰だと思っているか尋ねられました。これは他の人々からどのように思われているか知りたかったのではなく、弟子たちが他の人々に影響されてではなく、イエスさまをキリストと信じるように導かれるためでした。
イエスさまが「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われた時、ペテロは「神のキリストです」とはっきりと信仰を告白しました。今でもイエスさまは他でもない「あなた」は誰というのかと問われているのです。
(2)日々自分の十字架を負うて従う。
イエスさまはそのペテロの信仰告白を喜び、キリストとしての使命を明かされました(22)。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(23)。
「十字架を負う」には深い意味があります。一つにはそれぞれに与えられた使命、神さまが与えられた働きを担うということです。私たちにはそれぞれ神さまから与えられている主を証しする働きがあります。それを担うには日々の積み重ねが大切であることが教えられています。イエスさまはいつも神さまに祈りをささげて歩みをされました(18)。そのように日々、「自分を捨て」、自分の判断や思いを主に委ねて、主がどう願っておられるのか、どこに進むべきかを聞いていくことによって使命を果たす者とされるのです。
もう一つの意味は「苦しみ」を負うと言うことです。イエスさまが多くの人から捨てられたように、親しい人であってもイエスさまを信じるということについては受け入れられない現実があります。
さらにもう一つの意味は「十字架の赦し」に生きるということです。日々イエスさまの十字架を仰いで罪赦された者として歩み、他の人々をとりなし赦す生き方をすることです。
(3)わたしとわたしの言葉。
イエスさまは「わたしとわたしの言葉とを恥じる」ことについて警告されました。「十字架を負う」歩みをするためにイエスさまのように日々主に祈り、み言葉に聞くことが大切であると示されています。日々主を仰いで、み言葉に教えられ、主を証しする者でありたいと願います。