「約束の子イサク」
創世記18章1~15節
(1)三人のみ使い
主はアブラハムとサラに三人の使者を遣わされました。アブラハムは、最初は主からの使いだとは思わずに、歓待します。アブラハムは自分がハランの地からカナンの地まで旅をしましたから、旅がどれほど大変なものであるかを知ってもてなしたのです。
主は私たちの苦しみを知って下さるかたです。主は私たちの苦しみを知って共に負ってくださるかたなのです。
(2)約束の子。
み使いはアブラハムとサラに男の子が与えられるという主の言葉を告げました。前にアブラハムにはすでに告げていたのです(17:16)が、サラを覚えて語られたのです。
これは主が、アブラハムの妻だからというのではなく、サラそのものを愛しておられたことを示しています。主は人を偏り見ない方です。主は私たち一人ひとりを特別な存在として愛してくださっているのです。
(3)不信仰の笑から喜びの笑へ。
けれどもサラは常識的に考えてその言葉を信じることができず、主の言葉を笑ってしまいました。
「主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」(14)。
そのサラに主はなおも約束の言葉を示してくださいました。イサクには「彼は笑う」という意味があります。ここでは主の言葉を疑った不信仰の笑(18:12)でしたが、それを子どもが生まれるという喜びの笑(21:6)に変えてくださいました。主は私たちの不信仰にもかかわらず、み言葉を成し遂げて下さるかたなのです。