「盲人のいやし」
マルコによる福音書8章22~26節
(1)ある盲人。
イエスさまがベツサイダに着いた時、人々は目の見えない人をつれてきました。
ここでイエスさまはわざわざ村の外まで盲人をつれてゆかれます。それはイエスさまが単に病気を癒す方、奇跡的な力を持っている人として人々に知られることを好まれず、キリスト、罪からの贖う者であるということを知ってほしいと望まれていたからです。
(2)段階的いやし。
イエスさまは盲人を二段階に分けていやされています。最初はぼんやり目が見えるように、次にはっきり見えるようにいやされました。これには深い意味があります。この前の箇所で弟子たちがイエスさまのみ言葉を悟ることが出来なかった姿が描かれています。そしてこの箇所の後にはペテロがイエスさまをキリストと告白する姿が記されています。つまりイエスさまを知る、み言葉を悟るには段階があるということを示しているものです。
(3)霊的な目が開かれて。
私たちは、み言葉を聞いても最初からはっきりわかることはなかなかできません。けれども聖霊のお働きによってイエスさまに触れていただくたびに段々と霊的な目が開かれイエスさまを知り、キリストと告白する者とされていくのです。
またイエスさまは目が開かれた人に「村にはいってはいけない」と語られました。これはイエスさまを知る者とされた者は新しい生き方が与えられていることを示しているものです。イエスさまを信じる者とされている私たちも自己中心的な生き方から神様を中心としたみ言葉に従う生き方に変えられているのです。
私たちは日々主の前に出て行き、目開かれて、主のみ言葉に従う者とされたいと願います。