「主にあって一つ」
ヨハネによる福音書17章1~13節
(1)栄光の時。
イエス様はご自身が十字架につけられる時を知って「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(1)と祈られました。この世の人にとって十字架の死は忌まわしいものであり、絶望にもかかわらず、イエス様にとって十字架の死は神様の御心がなされる時であり救いが成就する栄光の時だったのです。
イエス様は、信じる者に永遠の命を与えられるために死なれました。イエス様の十字架の死を通して、私たちは、ひとり子をも与えられる神様の愛を知り、イエス様が私たちの罪の身代わりとなってくださる愛なる方であることを知ることができるのです。
(2)み言葉を守る者。
イエス様は弟子たちをみ言葉を守るものであると語られました(6)。弟子たちはイエス様が捕らわれる時に逃げ出してしまいました。ですからこれは弟子たちが自分たちの力で従い通したから、告げておられるのではありません。イエス様が弟子たちに与えられたみ言葉が、弟子たちの内に働いてイエス様を信じる者と変えられたからです(8)。
(3)主にあって一つ。
「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」(11)。
イエス様は残される弟子たちのことを覚えてとりなし、一つとなるために祈られました。それは今そこにいる弟子たちだけでなく、弟子たちからみ言葉を聞いて信じる者たちのためにも祈られたものです(20)。一つとは単に一致するということではなく、神様とイエス様が違う存在でありながら一つであったように、イエス様を示す聖霊によってそれぞれ違う個性を持ち賜物を与えられたわたしたち一人一人が主イエスの体のそれぞれの器官として用いられ一つとされるということです。
今の私たちのためにもイエス様はとりなしの祈りをささげられ、み言葉を通して語り続けてくださっています。私たちは聖霊によって一つとされ、主を証しするものとされたいと願います。