「十字架のあがない」
マタイによる福音書27章32~56節
(1)十字架の道。
イエス様はゲッセマネの園にてユダの裏切りによって捕らわれの身となりました。そして死刑ありきの不正な裁判によって十字架刑に処せされることになりました。イエス様は人々を救うために身の潔白を訴えることをされずに黙って神様に従われました(14)。
イエス様はそのようにして十字架を負ってゴルゴタへの道を進まれました。その途中でイエス様がむち打ちによって弱っておられたので代わりにクレネ人シモンに十字架を負わせました。シモンはイエス様の十字架を負ったことによってイエス様の救いに与るものとされました。
(2)人々の嘲弄。
イエス様の十字架の姿を見て人々は「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう」(42)と嘲りました。けれども逆にイエス様のあがないを指し示す言葉となりました。イエス様は人々の罪を負って身代わりとなって十字架で裁かれました。イエス様が十字架で死んでくださったからこそ人々が救われる道が開かれたのです。
(3)十字架のあがない。
「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」(46)。
イエス様は十字架の上で詩篇22篇1節を引用されてみ言葉の成就として神様に見捨てられることを言い表されました。イエス様は神様と一つであったにもかかわらず、私たちの身代わりとして罪ある者として神様から裁かれて死んでくださったのです。そのことゆえに私たちの罪は赦され、罪あるままで神の子とされているのです。
私たちは日々イエス様の十字架を仰いで神様に近づく者でありたいと願います。