「主に愛によって一つ」
ヨハネによる福音書17章13~26節
(1)御言は真理。
イエス様は十字架につけられる前日、残される弟子たちのことを覚えてとりなしの祈りをささげられました。イエス様は弟子たちが味わう苦しみの先に喜びがあることを示されました(13)。それはイエス様が与えられたみ言葉によって弟子たちが既に神様のものとされているからであると告げられました(14)。イエス様はみ言葉(イザヤ53章等)を成就するためにこの世に来られ十字架で死んでくださったのです(19)。
(2)みんなの者が一つ。
イエス様は今そこにいる弟子たちだけでなく、弟子たちからみ言葉を聞いて信じる者たちのために祈られ(20)、みんな者が一つになるためであると語られました(21)。
まず大切なこととして時間、空間を超えて今の私たちのためにもこの祈りがささげられていることが示されています。私たちは今もイエス様のとりなしによって悪から守られ苦難の中に喜びを、死の中に命を見出すものとされているのです。
そして、次に大切なこととして時間、空間を超えて主によって一つとされているということです。それは単に一致するということではなく神様とイエス様が違う存在でありながら一つであったように、それぞれ違う個性を持ち賜物を与えられた一人一人が聖霊によって主の体として一つとされているのです。
(3)愛のうちにおる。
「そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」(26)。
神様がイエス様を愛されたように神様が私たちを愛されていることが教えられています(23)。
けれども、弟子たちはイエス様が十字架につけられた時、神様に信頼することができずに恐れおののいていました(20:19等)。私たちも苦難に遭うとき神様やイエス様が愛してくださっていることを見出せなくなるものです。イエス様はそのような私たちの弱さを知って御名を知らせ続けてくださることを告げられました(26)。
今の私たちのためにもイエス様はとりなしの祈りをささげられ、み言葉を通して語り続けてくださっています。私たちはイエス様の愛のうちに歩み一つとされ、主を証しするものとされたいと願います。