「ラザロの死」
ヨハネによる福音書11章1~16節
(1)主が愛された者。
マリヤとマルタの兄弟であるラザロが記されています。マリヤとマルタについてはほかの福音書にも記されています(ルカ10:38等)が、ラザロの名はここだけに記されています。
ラザロは特筆すべきことをしたのではなく、普通の人でした。けれどもイエス様はラザロを愛されていました(3,5)。イエス様は名もない人のことを知って愛してくださる方なのです。
(2)ラザロの死。
「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(4)。
イエス様はラザロを愛しておられましたがあえて同じところにとどまっておられました(6)。それは死が終わりでないことを示し、神様の栄光を表すためでした。
(3)主イエスの友。
イエス様はラザロを友と呼ばれました。主は人を僕(奴隷)ではなくご自身と等しい者として接してくださる方なのです。主は別の個所で「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(15:13)と語られています。事実ラザロをよみがえらせたことによってイエス様は命を狙われることとなったのです(53)。
「神の栄光」、「神の子の栄光」とはイエス様の十字架の死と復活のことを意味しています。主は、私たちの友となって身代わりとして十字架で死んでくださったのです。
私たちも主の愛によって生かされていることを感謝し、苦しみの先に希望があることを信じて歩む者とされたいと願います。