「祈りの家」
ルカによる福音書19章41〜48節
(1)主イエスの嘆き。
イエス様はエルサレムに入城される時、エルサレムの人々のことを覚えて泣き嘆かれました。イエス様は、まずエルサレムが平和をもたらす道を知らないと言及されました。パリサイ人たちは、武力ではなく律法を守ることによって救い主が来て救われることを願っていました。けれども神様と平和を築くことができていなかったのです。
彼らは律法を守ることを大切にしていましたがそこにある神様のみ旨を知らなかったのです。イエス様は律法を、一つは神様を愛すること、二つは隣人を愛すること(マルコ12:28〜32)の二つの教えにまとめておられます。しかし、パリサイ人は神様を愛するといいながら隣人を見下していたのです(18:11〜12)。
イエス様は二つ目に「神のおとずれの時」を知らないと話されました。これは神様が、イエス様を遣わされることによって神の国を実現されることと、イエス様が再び来られる終わりの時について語っておられます。今日の私たちにとってはイエス様を心のうちにいつも迎え入れているのかが問われているのです。
(2)宮きよめ。
イエス様は神殿に入り商売人を追い出されました。商売人は必要から両替をし、犠牲となる動物を売っていましたが、儲けてよい生活をするために高い値段で売っていたのです。そこでイエス様は厳しく叱責されたのです。
私たちも教会に礼拝するために集まっていますが、神様に対し自分の願いだけを求めるならば商売人と同じことをしているのです。
(3)祈りの家。
「彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」(46)。
それに対して「祈の家」であるように教えておられます。イエス様は、祈りはただ単に自分の願いを告げる時ではなく、神様の静かな語りかけを聞く時であることを教えておられるのです。
私たちは日々祈り耳が開かれて神様のみ旨を聞き、行うものとされたいと願います。