鳥取信和教会
「わたしは主である」
イザヤ書43章1〜13節

(1)ヤコブよ。
 今日の箇所はバビロン捕囚で苦しんでいる民に預言者イザヤをとおして慰めの言葉を語っておられるところです。
 最初に捕囚の民に対して「ヤコブよ」と語りかけておられます。これは大切なことを示しています。ヤコブの生涯を見ますと、兄や父をだまし、人を押しのけて生きている姿が描かれています。あえて「ヤコブよ」と語りかけることによって、どのような人であっても神様が生まれる前から特別に愛し生涯を導いておられることを示されているのです。

(2)目が見えない民。
 けれども捕囚になっている民は「目があっても目が見えず、耳があっても耳がない民」であると示されています(8)。彼らはバビロン捕囚になっている現実が苦しくて神様が愛し顧みてくださっていることが分からなかったのです(イザヤ40:27)。
 私たちも神様を見るのではなく現実を見て、神様を信じ切れなくなる弱さを持っています。

(3)わたしは主である。
「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」(13)。そのような私たちに対してなお「わが証人である」(10)と励まし、主となって導いてくださると約束してくださっているのです。
 いつもへりくだって神様をいつも人生の主と仰いで主の証人として用いられたいと願います。

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