「主は牧者」
イザヤ書40章1〜11節
(1)慰めよ、わが民を
神様は「慰めよ、わが民を慰めよ」(1)とイザヤに語りかけられました。バビロン捕囚がそうであってように神様は厳しい裁きや試練を許されることがあります。けれどもそれはそこで失望してしまうためではなく、神様のもとに立ち返って慰めを得るために用意しておられるものなのです。
(2)呼ばわるものの声。
「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」(3)。主を迎えるに当たって平らにして大路をまっすぐにするように教えられています。これは私たちの内にある思い煩いを委ね、へりくだって主をまっすぐに見るように勧めているものです。
「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」(8)。人は草のような弱く消えてゆく存在です。しかし「神の言葉」はむなしく消えることはありません。「神の言葉」は必ず実現します。「神の言葉」を信じて従っていくならば私たちも永遠に生きるものとされるのです。
(3)主は牧者。
「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」。これはイエス様の姿を現している御言です。イエス様は私たちの弱さを知って下さる方です。そのイエス様が弱く迷いやすい小羊のような私たちを持ち運び、やさしく導いて下さるのです。私たちもイザヤのように主を牧者として歩み、主を証しするものでありたいと願います。