鳥取信和教会
「安息日の主」
ルカによる福音書6章1〜11節

(1)麦を食べる弟子たち。

 イエス様の弟子たちは安息日(土曜日)に麦を摘み、手でもんで食べていました。それを見て、パリサイ人たちは「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」と詰問しました。これは「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト20:8)という戒めを覚えてのものでした。それに対してイエス様はダビデたちが、聖別された(祭司だけが食べる事の出来る)パンを食べたこと(サムエル記上21:1〜6)を例として答えられました。 聖なるパンをダビデが取って食べたように、安息日に取って食べることは、神様は人が生きるために必要であると認めておられるということを示されました。イエス様は、神様が、安息日によって人を縛るのではなく、より良く生きるために定めておられることを示されたのです。私たちも、文字面に囚われるのではなく、神様の御心を求めてみ言葉に聞く者でありたいと願います。

(2)安息日の主。

 「また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」」(5)。イエス様は私たちにご自身が安息日の主であることを示されました。イエス様は私たちに安息日にどのように歩むべきか示してくださったのです。このみ言葉によって、私たちは律法に縛られることなく、元々の安息日(土曜日)や今の安息日(日曜日)を、神様の導きのままに歩み事が出来るのです。

(3)神様の時に。

 イエス様は安息日に右手がなえた人に目を留められました。それに対して律法学者やパリサイ人たちは訴えようとして見張っていました。けれどもイエス様はその人を真ん中に連れてきて癒されました。考えてみますとすぐに癒されなくても次の日でもいいような気がしますが、イエス様はその人を愛し、神様の時を知って直ぐに癒されたのです。神様は神様の時に恵みを備えてくださっています。私たちも今神様が備えてくださっている恵みを今信じて受け取るものでありたいと願います。

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